■井浦新(俳優)
かつて人を乗せ走っていたバスは廃車になり、農作業をしなくなった畑や田んぼは雑草が生え野原へと、人の住まなくなった家は朽ちゆき、勢いの盛んだった人もいつかは衰え居なくなってゆく。諸行無常はこの村にだけ起きていることではなく全ての理。けれど、無かったことにしたくない!そんな祈りのような瀬浪監督の情熱こそが、作品が携えている神秘性の根源のように感じました。
ふたつの太陽から西陽が射し込む不思議な村に迷い込んだ塔子の記憶には、出逢った人々や経験し学んだこと、食卓を囲み食べたご飯の味がずっと在り続ける。いつかきっと誰かへ伝わり、そうやって人々の記憶の中に存在し続ける。あのふたつの太陽の内のひとつは、希望の光であってほしいと願わずにはいられない。
■白石和彌(映画監督)
静かに流れる時間の中で、失われてゆく風景や人々の残像が心を掻き乱す。
瀬浪監督の視線は時に残酷だが、時にとてつもなく優しい。その眼力の強さが心地よい緊張感と深い余韻を作品にもたらしている。是非、多くの人に見てもらいたい作品だ。瀬浪監督が次に何を映画として切り撮るのかも、とても気になってしまう。次も、すぐに!
■金子雅和(映画監督 )
植林された自然の中、若者たちは常に不安を抱えているように見える。それは大いなる生態系から切り離されてしまった現代人の、無意識の哀しみを表しているのかも知れない。
目に見えぬ「言霊」を描こうと、僅かな月の光を頼りに暗闇の中へ手を伸ばすような本作のリリシズムは、水面を漂う女性のイメージと重なり、ビル・エヴァンス「アンダーカレント」を想起した。
月と海、潮の満ち引き。つまりは一人の女性が、失われた内なる自然=身体性を取り戻す物語なのだ。
■風間志織(映画監督)
最近の世の中の表現ってやつが均質化して妙にマジメで堅苦しくなっているなと感じる。其処へ行くと瀬浪歌央監督の『雨の方舟』はイマドキかなりヘンテコな映画だ。
社会から忘れ去られたような日本の山村に暮らす若者達のところに転がり込んだ家出少女。しかし彼女や彼らについての説明は一切無い。
瀬浪は、今時ならば新興宗教的疑似家族ホラーになり得る物語りを敢えて拒否し、ひたすら懐かしいと惑わされるような古き良きニッポンの壊れた山村に現代の若者達をただそこに揺蕩うように存在させる。狂言回しでもある家出少女役を演じる大塚菜々穂の眼差しが、この映画のヘンテコさをより強靱にする。
彼女の視線はまるで3歳児のそれのようにひたすら真っ直ぐで、猜疑心や反発、好奇心を内包し、こちらを見つめ返す。もはや言葉は虚しい。彼女の異様に真っ直ぐな眼差しはどこへ向かうのか?きっとその方向は監督と共有しているのだろう。坦々として過激。この映画の堂々としたヘンテコさは、瀬浪がこれからも映画を撮ってゆく表現者としての重要な武器となるだろう。彼女の次回作がどこへ向かうのか楽しみにしている。
■宮崎大祐(映画監督)
わたしたちは気がつくとどこかに住んでしまっている。
すでに息もしてしまっているし、飲み食いもしてしまっている。
いつの間にか世界は「わたしたちにとって」のものになっている。
しかし、「わたしたちにとって」の世界ではない世界がそこに実在しているということは最近の世の中を見ていると、どうやら確実なようだ。
そんな世界を垣間見るための鍵になる、わたしたちにとってのものではない住処とは?森とは?海とは?肉とは?スクリーンを凝視しながらそんなことを考えていた。
■工藤梨穂(映画監督)
『創世記』の大洪水を連想させる冒頭の雨が素晴らしい。
思いがけず家という"方舟"の乗組員になってしまった主人公が体験するなんとも奇妙な共同生活!その昼・夕・夜の時間が穏やかに、同時に不穏に流れていく中で過去のやまびこが未来へこだまする時、瀬浪歌央は私たちが信じてやまない"明日"の存在への問いかけを静かに突きつける。『雨の方舟』は、粛々と日常を描きながら観客を時間という迷宮へ誘い、軽やかに私たちの予想を裏切り続けるだろう。
■植木咲楽(映画監督)
最初っから湿度だ。まとわり付いてくる。 けれど、視線を向けたらパッと離れるから「え、」ってなる。 実はドライ?無邪気すぎるの? 「あなたのことを知りたい。」
そういう、前のめりな気持ちになる映画はなかなか忘れられない。 すりガラスでほのめく世界。しかし役者の輪郭は決してブレないのは、瀬浪監督の勇敢な眼差しゆえ。
どこまでも真摯な光だから、沢山の方とスクリーンで出会って欲しい。心の底から願っています。
■窪瀬環(俳優)
逃げる前は何も想像もできないのだけれど、逃げた先にも必ず何かある。
良いことばかりでなく、取り憑かれるようなこともある。
ああこれだけは…と忘れたくないと思うものが、顔の横にくる水なのか、
布団のシワなのか、観るたびに変わるように思います。
異質な共同生活と、夢のように柔らかい山々との不気味な境界線だけは、
変わりませんでした。
■前野朋哉(俳優・映画監督)
虫の声、川のせせらぎ、風の音。
その合間に聞こえるネイティブ岡山弁。
地元の岡山を、まるで散歩しているような感覚だ。
この映画は堂々とは語らない。けど、言葉ではない叫びが聞こえる。
自然と想像が膨らむ世界が、心地よかった。
■片岡礼子(俳優)
東洋のマチュピチュと言われる山の奥に生まれ育った我が父は年を取るごとにそこに想いを馳せていた。
もういまは誰も住んでいないのに。
地形を変えるかのような山の雨。
そこに住む人の話し声。
日本の希少な遺すべきドキュメンタリー映画にも思えた。
瀬浪監督が想いある土地に根ざし撮ったこの物語のせいで今が新映画の創世記にも感じた。
私はそこの住人に憧れ続けるだろう。
■深田晃司(映画監督)
うだるように暑い夏の夜に見たせいか、
自分もまた「彼ら」の共同生活の一員になったような気持ちにさせられました。
明瞭な筋のない映画であるにも関わらず、飽きることなく見れてしまうのは、
そこに描かれている人も景色も家も野菜も常に明瞭であるからでしょう。
映像が明瞭であるがゆえに、
この映画はヒリヒリと実存への不安を掻き立ててくる。
願わくば瀬浪監督にはこの題材で何本か撮り続けて欲しいと思いました。
答えなんてあるはずもない個の不安を描くことは、
社会問題を描くのと同じぐらい、いや、おそらくそれ以上に、
表現が担える大切な役割であり特権であるのだから。
■村瀬大智(映画監督)
同期である瀬浪監督は、
社交性がありながら自らを取り巻く世界や他者に対して、
不安や疑念を繊細に感じとる人だと思う。
この映画に出てくる寄る辺ない若者たちは、
同時に同世代の僕たちでもある気がした。
僕たちが帰る場所、帰りたかった場所は永遠に見つからないし、
既に失われているかもしれない。
少なくとも若者たちの感情、時間が重なるひとつの姿として、
それらは失われるべき静かな場所を待っている。
「雨の方舟」は散りばめられた断片を少しずつ少しずつ拾い集めるように
それらの合致をひとつひとつ発見していく映画である。
■唯野浩平(映画監督)
自分が小さい頃、夏休みになると訪れる滞留した時間を、
彼らが過ごす山の生活に感じました。
ふと忘れていた時間でした。
この時間の流れのなかではいろんなことから解放されて、
他者や自分自身に目を向けられます。
そのなかで彼女は何を見つめているのでしょうか。
考えているうちに映像は途切れ、
映像から自分のいる場所に帰って来たような感覚に陥りました。
■藤元明緒(映画作家)
過ぎて行った日々と土地の残照に、刻を見つめることの喜びを教えてくれました。
それは不可逆な未来の追憶なのでしょう。
■三宅唱(映画監督)
❝またま❞ の大雨の音、山の色、家屋の空気、そしてこの地で実際に生活する人々が魅力的です。
自分もこんな環境に身をおいて撮影してみたいという気持ちと、
この自然のなかで映画を作るのは本当に難しそうだという気持ちが湧きました。
ヨソからやってきた撮影隊や役者というものはえてして不自然な存在で、
❝またま❞ から浮いてしまいそうだからです。
しかし、この映画のチームは腰が強い。
というのも例えば、寝ていた人が目覚めて起きあがるという、
ごく簡単に思えて時に嘘くさくなりがちな決して短くはない芝居の一連を、
この映画はなるべく省略せずに、慌てずに、じっくり見つめようとしているからです。
そのショットが、この態度で映画を作るんだという決意の表れなのか、
ごく当然の選択だったのかはわかりませんが、ともかく、この映画が彼女たちとともに寝そべり、
ともに起き、ともにごはんを食べ、ともに働き、またともに寝そべるのが、いい。
それを見ることで、不自然な存在かと思われた映画がこの土地にじわりと馴染んでいくように感じました。
ぜひもう一度、❝またま❞ とともに映画を作ってほしいです。